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独り言

Updated: Jan 5, 2019

再び独り言の仏教ネタである。



その土地独自の土着文化やスリランカ経由の文化がまざりかなり奥深い文化を形成しているのが東南アジア仏教だ。


2千5百年以上の歴史を持つ仏教に文句を付けるつもりは全くなく、その奥深さ故にまだまだ勉強不足、知識不足であり、まだまだ理解が足りていない上で、自分が疑問に思う事を書いているので、まずそれを理解してから読んでもらいたい。


仏教に限らずだが、『寛容』や『慈悲』が大切とされている。



お互いに言い争い事があり、互いに互いが信じる正当な理由を主張し合い、折り合えない時は慈悲を持って解決すべきと言われている。この場合の『慈悲』とは何かと疑問にずっと思っている。タイ人の友人にはまだまだ仏教への理解が足りていない、と言われる。素直にそうだと思っている。


『行動』という見方で言うと、話に折り合いが付かない場合、『慈悲』を持って解決とはどちらか一人が折れる、黙る、もう一方の考え方を聞き入れるという事だろうと理解している。


理解し合えていないまま、一方が黙り、一方が主張を押し通す事になるので、本当は相互理解がされていないまま、物事が流されているのではと考える。



折れる側としても、相手を理解せずに折れるだけでは我慢が必要とされると思っている。自分の正しいと信じる事をまげてまで相手を受け入れるのである。これが『慈悲』と言われているのかも知れない。自分が知らないだけかも知れない。


慈悲とは友情、人々を平等に扱うという考えから生まれた言葉の様である。理解し和えなくても友情とはとても奥が深い。

我慢はストレスの元で健康によろしいとは言えないが、仏教が発祥した当時と今では考え方が違っていたのかも知れない、と色々と考えが巡る。


別の見方をすると、言い争いはその場で慈悲によって収まるが、この両者の考え方の違いはそのままであり、お互いを理解できるまで話し合わないので、結局また同じような問題が起こるのではないかと、勝手な余計なお世話な疑念を持ってしまっている。



近年のこの国際社会では誰かと折入れなければ付き合う必要がないという人も多くなっているのではないだろうか。面と向かっての出会い以外にもソーシャルメディアを介して国や人種を超えて人と出会える世の中である。


悪口でもなく、勝手に比較対象を探して似通っている文化を挙げると、これがなんだか当てはまると思う文化がある。それはこれだ。『くさいものには蓋をする』文化である。

十人十色であり、外国で育ったタイ人もいるので全員とは決して言えないが、タイ人の中にはこの『くさいものに蓋をする』文化に当てはまる人がいる。


彼らは良い意味で争い事を嫌い平和を好むのである。行動で表すと、話し合わない、誰かが我慢をする、黙って目をつぶる、ケンカはしない人々である。


その中で人によっては何も反論はしないが、実際は話を受け入れていない人も中にはいるので、それもどうかと思うのである。無口だが石頭な人はどうやって相互理解をしたら良いか分からない時が多々ある。



自分が討論派なので、とことん話してその場で理解しあってすっきりして終わりたいと思っているが、ひとそれぞれ考え方は違うので相容れない人ももちろん存在している。


冷静にお互いがお互いの考え方を語らうのはとても楽しい事と思っている。誰がどういう事を考えているか知ることが出来るし、新鮮な意見も沢山出てくるので勉強になると思っている。


戦争や争い事は誰かが黙ることを知らずに自分自身を主張し相手に強制的に受け入れさせる事で負の連鎖が生まれ止らなくなるので、この『慈悲』とはとても重要な事であると内心良く分かっているものの、深くまではまだ理解がしきれていないのである。


人生経験がまだまだ豊富ではないので、色々と知らない事が沢山ある。知りたいことがあるととことん追求してしまう性格なので煙たがれるのがオチである。

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